側溝覗きの人の話
お金、お金、お金
タイトルはほとんど意味がない。
どうでもいい、文を書こうとしています。読むほどの価値のないものです。じゃあなぜ書くのか?自分の整理のため。いわんや、自己満足。人に気を使わない文章。そういったものが今の自分が欲している欲望だからです。誰もみてないし、法的に触れてないし、ネットリテラシーは知らないけれど、自己顕示欲が肥大しているものだから仕方ない。ね、めんどくさいでしょ。こんな文章読む人の気が知れない。でも全世界に発信はしてるわけだ。日本語が読める人は一応全員読めるわけだ。日本語が読める人は恐らく二億くらいか・・・。知らないけれど、
ソースはありませんから。日本の人口が1億5千万で日本語習っている人が5千万かな。きっと。適当な情報。適当でいることが許せない社会ですからね、最近は。そこをあえて適当にやる場所が欲しいのです、最近は。どこもかしこも嘘は許さない。ちょっと常識的にどうなの?といわれたら一気に叩かれる社会。どこか北朝鮮の監視社会のような気もします。ますます、クレーマーのせいでTVはつまらないし、ネットもそうなってきてるし。みんなスマフォで写真を撮って悪いことの証拠集めにまい進してますし。
いまこそ、そういった反体制の側にいける人がロックスター的に現れてもいい気がするけれど、それをやっても誰もが無関心。関わりたくない。ってなりそうで。それをやるのは犯罪者扱いにされてしまうし。
彼女ですら。すいません、彼女います。とか言うだけで今は批判の対象でリア充爆発しろと言われてしまう。みんながどこか空気を読まざるを得ない。なんて不自由な社会なんだろう。善意ですら、偽善者扱い。彼女ですら、気を使わなくてはいけない。デリカシーがない。と言われる。デリカシーってなんだよ。知らないよ。どこまでも気を使わなければいけない。それをコミュニケーションという。コミュ障だから、、、と言い訳。ばかじゃないか。そんな言葉で逃げ道を作って。欝とか。世界は広いけど声の小さい人、弱気な人には狭い。なにをどうやって、ネツリョウヲモッテ、いいのか本当にわかりにくい。
そこでだ、お金を生むための方法は誰しもが考えなければいけない。本音を押し殺して、サラリーマンでいいのかもしれないけど、なにか社会になじめないひとはきっと空想の世界に生きてる。空想の世界を小説や映画や絵やなにかしらのクリエーテブにかえる力をそういった人々達はもたないととてもイキズライ。なんでもいいのだ、人から認められなくても、自分らしさを発揮できる物をみつけてそれをお金にかえて生活したいのだ。お金で振り回されていいのだと思う。自分の好きなものを貫くには生活プラスそれにかかる費用がかかるものだ。彼女とうまくやるにも借金があってはままならない。ましてや彼女を作ることにすら躊躇する。結婚なんてしちゃいけないと、自分に自身がよほどなくなる。文法がもうむちゃくちゃだ。
熱量、
お金を生めるほどの熱量。三次元を超える作品愛。これからは熱量クリエイティブさえあれば。あと、運と戦略がないと作ったものにお金なんか生まれない。それ以外は屑と言われる。渋谷で熱狂するようなばかを旨く「これいいんじゃね」とおもわせるビジネスの嗅覚を持った人によいと思わせる作品。SEKAINOOWARIみたいな。あさい。わたしはどうしてもあさい。どうやって、人に影響を与えられるのか。何も名声のない人が言ってもしょうがない。馬鹿になったほうがらくだ。ロボットみたいに人の期待に応えられた方がきっとらくだ。そんなのあたりまえだ。
自分の得意なものを作品にこめる努力がたりない。もやもやとしてるのに怠惰。だから貧乏で借金だらけなのだ。引くぐらい熱量があれば、なんだっていいいのに。熱量をなんでもいいからこめたいのだ。魂をこめたいのだ。なんでもいいのだ。命をけずりぁええんのじゃ。どこの方言だ。ばかになりたい。狂をえたい。なににお前は狂えるのだ。作品作りに狂え。狂え。狂え。何も浮かばずとも、作品作りの事を考えろ。狂え。浮かばないんじやない。浮かぶまで狂っていないのだ。狂え、狂え、狂え。社会不適合者よ。作品作りに狂え。狂え。じゃなきゃいつまでたっても生きにくい。死ぬくらいなら狂え。お金は後から付いてくる
ジョギン愚痴
くりすます
毎年恒例のこの町が浮かれる季節がやってまいりましたな。ひかりが強くなればなるほど、影は濃くなるもので。
1人身にとっては辛い季節でございます。
なので毎年、クリスマスなど知りませんという顔をしたり、クリスマス逃げてなるものか、と立ち向かって結局しんどかったりしております。今年は記憶の中から消してみようかと・・・。
クリスマスって、なんだっけ?たしか、昔、どこかの田舎に行った時にそういった風習があると聞いた事がある。ペンションを経営しているおばあさん に、その日はクリスマスで、クリスマスツリーにイルミネーションを灯していた時に「まぶしい・・・ワシにはまぶしすぎる・・・」と言って、その話ははじ まった。
「聖子!とうとう今年は俺がさんたに選ばれたようだ」と、聖子のお父さんは苦い顔をして言った。
もうすぐ、毎年恒例のあの「くりすます」がはじまる。聖子は高校3年生だ。とある山深い田舎に住んでいる。今年もあの忌まわしい風習「くりすま す」がはじまる。昔は毎年あったそうだが、遺族の感情をかんがみて、今は4年に一度となった。かつて、私の兄もさんたになった。20歳だった。今度は父 が・・・。
その日から父は悲しみを抑えているのか勤めて明るかった。「おれ、今年さんただから」と、陽気にふるまっている。選ばれたんだ。と、喜んでいる。いつまにか靴下は増えていた。
前日、父は私を呼んだ。「これから、おまえは母さんと生きなさい。それから、おまえの兄ちゃんはな、秘密を知ってしまったんだ。私ももちろん知っている。この村の秘密だ」その時の父の顔は今でも覚えている。悲しみと憎悪に満ちた顔だった。
「くりすます」当日。人でにぎわっていた。みんな村の男達は白装束だ。やがて、トナカイがたくさん運ばれてきて、村の男達はそれに乗る。太鼓の音が遠くから聞こえる。女達は1人づつロウソクを持って回りを囲んでいる。もちろん私も。
太鼓の音に重なり、ひちりきがなりはじめる。男達の「うぉー」という怒号とともに大さんた様がイルミという祭壇に姿を現した。大さんた様は 「うぃー」と大声を張り上げると、村の男達は、「うぃっしゅ」と全員が返した。やがて、太鼓のリズムが変わり「うぃーうぃっしゅあめりくりすます、うぃー うぃっしゅあめりくりすます」と童歌のようになっていった。
村の男達は、トナカイにそれぞれが持った刃物で切り始めた。トナカイは血しぶきをあげた。あたり一面、血の海になり、それぞれが想像しうるサンタの姿へ白装束は変わっていった。♪うぃーうぃしゅあめりーくりすます
と音楽は鳴り響いている。
やがて、音楽は♪しゅはきませりーになり、父がイルミ祭壇へ、祭り上げられた。祭壇に父は寝そべり、いつものように首が大さんた様により、切り落とされようとした時、父は包丁で大サンタ様を刺した。音はぴたりと止まった。沈黙を裂いて、父は叫んだ・・・
「聖子!逃げろ」
母は横にいた。「行くよ」と手を引っ張り私は走った。周りの村人は私達を囲んだ。それに目もくれず私は走った。母は途中で転んでしまい、村人に集団で蹴られているのを最後に見ながら私は走った。母は最期まで「聖子、にげろ」と叫んでいた。
山から下りて、しばらく走った。街中に付いたのは朝方だった。それから、ヒッチハイクを繰り返し、私は気が付いたら東京駅にいた。その日もくりすますだ。
東京駅の光はまぶしかった。駅が映画のように次々と音楽と共に模様が変わる。おそらく、プロジェクションマッピングというやつだ。だが、聖子は知らない。「なにこれ・・・。父ちゃん、クリスマスってこういうものだったの・・・」
きっと兄は東京の街でクリスマスという存在を知ってしまったんだろう。それで生贄に・・・。
私はあの村の風習とあの村の人達への恨みに震えた。
私は、いつかきっとあの村に戻る。家族のために。
と言う話をそのおばあさんはした後、僕の事を「兄さん」と呼んでいた・・・。というお話。
散文
その街のこども感想※ネタバレアリ
劇場版「その街のこども」を、なにげなくDVDで観た。元々、NHKの「阪神淡路大震災 十五周年記念ドラマ」として、2年前に放送されたものだそう。視 聴率は3%くらいだったけれど反響を呼んで、再編集され、映画化されたのが劇場版「その街のこども」。普通のドラマの映画化とは、意味合いが違うようだ。
主演の二人は、森山未來と佐藤江梨子。わりと有名な部類に入る実力も名声もある役者さんが主演。だけど、二人は15年前に実際に、阪神淡路大震 災を体験している、まさに「その街のこども」達のその後だ。映画は、主演の二人が役割を持って演じているものの、どこまでが脚本でどこまでがアドリブなの か、わからない程、リアリティに 溢れていて、ただ、ただ単純にすごい。そして、うまい。森山未來は「モテキ」とは全然違う顔をしている。佐藤江梨子も「腑抜けども~」と全然違う。
中身についても、同じ電車に乗り合わせた二人が、ふとしたキッカケで震災から15年経った神戸の三宮~御影~三宮を深夜にひたすら歩いて会話するだけ、というシンプルな構成で成り立っているものの、全く最後まで飽きなかった。
ざっくり、あらすじを引用すると、【2010年1月16日、「明日は震災の日か……」と脳裏をかすめる中田勇治(森山未來)。出張のために新幹線で広島へ向かう途中、新神戸で下車してしまう。そんな時、偶然ホームで知り合ったのが大村美夏(佐藤江梨子)だった。
美夏は、東遊園地で行われる追悼のつどいに行きたいが、「決心が付かず、怖い」と勇治に打ち明ける。今は東京に暮らす二人には誰にも言えず、抱え続けてきた震災の記憶があった。】
それから、東日本大震災だってそうだけど、TVや新聞の報道では、悲しいとか、大変だ、とかが中心だけど、この映画は、当事者にとっては笑える事もあった んだよ、と少しだけ語っていて、けれど、痛みも傷ももちろんあるけれど、と、すごく伝わりにくい複雑な感情を上手く表現していて、テーマとしてもよく放送 してたものだな、と思う。
※映画の本編について言うと、ここから完全にネタバレなので、「その街のこども」観たい人は見ないでください。
観た人、絶対に観ないって人だけ、読んでもらえれば。色々と想う事もあったもので、ここからは完全に自己満足っす。
最初に、森山 未來と佐藤江梨子が出会うシーンで、ナンパ?みたいに出会い、なんとなくこの二人はバランスが悪いというか、釣り合いそうにないなぁ、背丈とか雰囲気と か。けど、上手くいくんだろうね。って感じで観てた、最初は。で、居酒屋に移り、森山未來は会社の先輩命令だけど、「スリーサイズか電話番号教えて」とか 言ったり、サトエリは「私、ナンパゆうか、逆ナンする娘なんです」とか言っていて、この二人、なんとなくトゲがあるな、というか共にちょっと性格悪い なぁ。とか思ったりしていて。そして、やがて、二人は、「10何年ぶりに神戸に帰ってきた」と、被災した時の心情を話し始めて、それも不器用に「阪神大震 災の時さ、学校なくなって、何かラッキーやったなって、ハハハ」「アハハハ、私も思ってた」みたいなやり取りから始まって、段々と二人とも理解して打ち解 け始めた、と思ったとたんに森山未來の神戸を出て行った理由が「親父が地震で、大儲けしたんや、それでいい家に住ませてもろたし、何が悪いんや。だけど、 よういじめられたわ、あの頃」と言うと、サトエリはその価値観に当時のいじめっ子達のように完全にドン引きして、「もうええわ。最低や」と、一度帰ってし まう。この時の居酒屋のスダレ越しの会話がとてもリアルで、この後、どうなってしまうんだろう?と、思って観させられた。
まぁ、それからなんとか二人は合流し(ちょっと不自然気味だったけど、そんな事は後々どうでもよくなる)、真夜中の三宮から御影まで歩く事になる。
サトエリは元々、 御影のおばあちゃん家に挨拶に行って、戻って三宮の東遊園地の「追悼のつどい」に出る事が目的で、それに森山未来が付き合わされることに、なる。あと関係ないけど、途中に出てくる肉まんとか、たこ焼きとか食べ物もおいしそうだった。
荷物を10分交代で持とうと、提案してるやりとり「あんた男やろ」とか、少し可笑しい。お互い、どこか居酒屋の会話からの気まずさからか、まだ ぎこちなくて。そして、荷物を持ってる側、森山未來が昔住んでた故郷、灘区に来ると「あー、あかん。やっぱあかん。あそこの家もあそこの家も覚えてるわ」 と、深いところに残っていた傷が掘り起こされる。なんだかんだ、忘れていて、冷めたフリでやり過ごしていても、やっぱり実際傷の根本の場所へ来て、傷をい じくられると、「あー、あかん。やばいわぁ」とか少し客観的に言いはするけど、動揺は抑えられなくて、って感情がとても上手く丁寧に出ていて、実際、自分 もそういう風に泣いてしまう時「あーやばい。ちょっとやばい」とか、言いながら、泣いた事もあったりで。なんとか、抑えようにも抑えられない事というか、 傷ついていないと、自分では思っていても、思い込んでいても、妙に深くえぐられるその感覚は、「なーんかやばい」とか言いながら、そうなってしまうもの で。不意にえぐられるもんで。
そこで、森山未來は語り終え、サトエリの最初の目的地に着くんだけども、その合間合間に、表情と風景だけのシーンがあって、なんとなく哀しさが伝わるような感覚の映像で、ものすごく余韻を作ってくれていて、そこに浸る。
やがて、御影に着き、今度はサトエリが荷物を持っている。そこまで、何度も語ろうとしては止めていた話「友達が地震で死んでもてん」と、とつとつと語り、 「でな、その子、めちゃくちゃええ子やってん、私より数倍。ほんで、その子の家がつぶれたんやけど、おっちゃんだけ生きててん。家族全員死んで、おっちゃ んだけ生き残ってん。私、おっちゃん慰めよう、とか思うより前にひたすら、おっちゃんが怖かってん。こわぁて、よう近づかんかってん」と、とつとつと語り 始める。特に泣くとかそういう事もなく、訥々と。
そして、サトエリはおばあちゃんに会い、目的を果たし「三宮まで戻ろうか」となる。が、その直後、それは突然、訪れる。まだ整理し切れていない気持ちを、 持っていて、行く予定なんかなかったのに、サトエリの震災で亡くなった友達の家族を失ったお父さんが現在住んでいる家の前で、マンションの一室なんだけ ど、部屋に灯りがついてる事に気づいてしまう。その時の灯りはサトエリの心情と、表情と、あいまって、なんか怖いと、こちらも思っていた。なんか嫌な灯り だなって。怖いって。そこで、森山未來は、「行ってみたら。向き合ってきたら」と促す。サトエリも「ずっとそこ、おって見守っててな」森山「待ってて、 て。どのくらい?」サトエリ「おっちゃん泣いたら、止まらんから、2時間くらい」森山「凍え死ぬて」サトエリ「おってな」と、あって、サトエリはそこへ怖 がりながらも、向かう。森山未來はしばらく居て、結局寒くなってコンビニへ。だけど、しばらくして、思い直し、さっきの場所へ戻る。それも、小走りで。誰 かのために、小走りで。その姿が何か、とてもいい。少し愛おしいシーン。戻って、またしばらく待ち、サトエリが友達の写真を持ってフラフラと戻ってくる。 ちょっとゾンビみたいに、ふらふらと。暗闇でよく見えず、顔が見えると、サトエリはボロボロに泣いている。おっちゃんと向き合って、ボロボロに泣いてい る。森山未來は何かに気づき、画面が変わると、あんなに怖かったおっちゃんの家の灯りが、ひどく優しく灯っている。(ように見える。不思議と)その優しい 灯りの中から、生身のおっちゃんが。あの友達のおっちゃんが現れ、手を振っている。森山未來「おっちゃん、手振ってんで」サトエリは後ろを向いていて「あ かん、こんなボロボロの顔見せられへん」「大丈夫やて、暗いし、わからんて」と森山未來が手を振る。と、それにサトエリが気づいて「やめてや、私におっ ちゃん、手振ってんねん」と、やっと、やっと、ボロボロ に泣きながら手を振り返す。森山未來は思わず笑ってしまって、サトエリもそれにつられるかのように、笑う。優しい光。二人がやっと、共感出来た瞬間。こう いう瞬間があるから、なんか、生きてて良かったと思える。震災に限らず、身内の死や、病気、日々のつらい事。皆がたぶん、どこかに抱えているもので、そん なものが共感で少しでも軽くなる瞬間。少しだけでも、人にわかって貰えるその瞬間。それは、地震にあったとか、関係なく、映画の台詞にあるけれど「忘れよ うがなく、たまにつらくなった時は、みんなで工夫してどうやったら、つらくなくなるんかを考える」が、とてもよく現れてて、そして、泣いていいんだか笑っ ていいんだか、わからないけど、ちょっと救われて、もと来た道を二人は帰りはじめる。少し二人の距離が縮まって、お互いちょっと気遣ったりする良い空気感 で、そこに音楽が流れ始める。その音楽、サントラもとてもはまっている。歩くスピードにあわせて、ゆっくりと。
三宮の東遊園地に着き、サトエリはそこに森山未來を誘うが「いや、遠慮しとくわ」と、断る。まだ、サトエリほど、回復できていないのかもしれな い。別れ際、サトエリは不意に森山未來に抱きつき、抱擁だけして、「また来年」って。その抱擁は、なんか本当の意味で、心から「ありがとう」とじんわり、 言ってるような気がして、なんかホントよかった。と、思った。
何が言いたいのか、わからなくなってきたけど、無理くりゲスい話をするならば、恋人が出来た時、恋人の胸元に飛び込んだ時、ブラの硬さごしの柔らかい暖か さに包まれた瞬間、脳がパーンとはじけるあの感覚。多幸感に包まれたあの脳がパーンとなる感じ。全てを受け入れてもらえた。と、一瞬でも思うあの感覚。生 きててよかった。と、心から思えるあの脳がパーンとなる感覚。どんなに辛くとも、この瞬間の記憶をちょっと思い出せば、もうちょっと生きてみようと、思う あの感覚。極端すぎるかもしれないけれど・・・。
「生きててよかった」って瞬間にもいろいろと種類があって、その一つにしかすぎないのかも、しれないけれど。
それに他人の全てを理解する事は、きっと、どだい無理な話だけど、自分から見て、映画にしろ、音楽にしろ、小説や絵、お笑い、それを見て聴いて、共感したり、同じ気持ちを持ってる人が世の中にはいるんだって、思う事。
友人にしたって、なんかこの人、自分と雰囲気似てる、趣味が近い、意外と同じ痛みがある。とか、思ったり、その事を知るだけで、自分だけじゃねぇんだ、辛 いとか、苦しいとか、あー、そういういうの自分だけじゃねぇんだって事が、わかるだけでも、どこか、救われた気がするのです。自分は。そして、人は皆、そ ういうものを持ってるだろうと、そう信じたいのです。そして、出来るだけ、人の事も理解したい、と思うのです。面倒くさくて、そんな気が起きない事も多々 あれど、なるべく、そう出来たら、いいと思うんです。
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PRAYER
日曜。もうすぐ日が暮れる。明日からの仕事が憂鬱で仕方がない。明日もきっと一日営業回りで成果はないのだろう。そして上司にどやされる。そんな毎日がまたやってくる。
「おまえは何年この仕事やってんだ、あぁ!いつまでたっても成長しねぇえなぁ、こら!コラが二倍でもお前は何もかわらねぇ。今年いくつだ、てめぇ!30超えてんじゃねぇか!やっべぇやっべぇなぁお前は、親が泣いてんぞきっとな。電話してみろや、なぁ、ぼけ!なぁなぁなぁ!。この野郎、なんちゅう目で見てんだこの野郎!なめんな、こら!殺すぞ!てめぇ営業取ってからだろ、そんな目できんの!なぁ!おめぇ楽しいのか?仕事?楽しいわけねぇわな!死んだ方がいい、おめぇみてぇの、なぁ」
ほぼラップだ。何を言ってるのか、僕は全くわからないけど、リズムが生まれてるような気はする。だけど、とても疲れる。それだけは確実に。神経が蝕まれているような気もする。毎日だ。また明日から、金曜まで毎日これが続く。僕はもう仕事に対して何も期待はしていない。お金がもらえれば、それでいい。
恋人?そんなものは考えた事もない。僕は死んだ方がいい人間らしいから。休みはひたすら眠り、起きたら洗濯して、買い物して、それで終わりだ。
日曜、TSUTAYAで借りた映画を観る。妻が逃げて、何もない男がヒーローを趣味で始めるという話だ。僕は何がしたかったっけ?昔は映画の脚本なんて書いてみたりもしたっけ。大学の若気の至りでおしまいだった。夢なんてものは見る事が出来るのも一握りだ。金なくてもいい、なんて今更思えない。
日曜、映画を観終わった夕暮れ。なんとなく、つっかけで散歩に出かけた。しばらくして、夕暮れを観ていたら、携帯がなった。意外と歩いてきてしまったようだ。携帯の着信の文字は母親からだった。出てみると、「元気か?」「ちゃんと飯食ってるか?」「恋人は?実家つれてきてもええんだよ」。僕は「はい」「はい」としか答えられなかった。なんとなく電話越しだと母親は耳が遠いのもあり、面倒くさく感じることもある。けれども、電話を切った後、夕暮れの明るい光とipodの切ない音楽が現状の哀しい自分に向かって襲い掛かる。何もない。自分には何もない。何か光をつかみたい。悲しみに、ただただおびえているだけだ。
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